87歳の今も描き続ける黒田征太郎さんが、
絵と音と子どもにふれるイベントを開催!
黒田征太郎|絵描き
開業300周年を迎える2026年、大丸心斎橋店では3月からその歴史を振り返る記念イベント・展示などを展開しています。5月から6月にかけては、300周年記念のキャラクターであるフェニックスをさまざまなアーティストに描いてもらい展示するなど、「アート」をテーマに館を彩ります。中でも、注目のイベントは、大阪生まれで世界的に活躍する絵描き・黒田征太郎さんによるライブペインティング、そして子どもたちとのフェニックスの共作。5月30日(土)のイベント開催を前に、北九州市・門司港にある黒田さんのアトリエを訪れて話を聞きました。
※イベントの詳細はページ下部「300th ANNIVERSARY 開業300周年特設サイト 『ずっと、あきない。』のバナーからか、こちら(※別ウィンドウで開きます)からご確認ください。
16歳で船乗りに。そのあと
デザイン界の巨匠に弟子入り。
大阪で生まれた黒田さんですが、その後ニューヨーク生活を経て、現在拠点としているのは福岡県北九州市の門司港。関門海峡を目の前にした海の街です。
「門司港には上海から来ました。長く住んでいたニューヨークから上海に行って、友達が多いから暮らしていて。気がついたら、北九州って近いから住んでみようと思ってここへ来た。気ままなものですよ。居着いた場所での暮らしはどこでも飲み屋から始めるのですが(笑)、このアトリエも飲み屋のカウンターで知り合った人との縁で借りてます。しばらく廃墟のようなところだったそうですが、2階に“薬局”と書かれたコーナーが残されているので、船乗りが体のチェックをするための施設だったんじゃないかな」
たくさんの絵に囲まれた港近くのアトリエ。クレヨンや筆などの筆記具、額などが無造作に置かれ、いい感じに混沌としている机を前に座る黒田さんは、開口一番こう話してくれました。今でも多くの船が行き交う門司港ですが、黒田さんが人生で初めて携わった仕事も実は船乗り。それも16歳という若さでした。
「生まれたのは大阪ですが、戦争がひどくなって大阪が爆撃され始めて西宮の夙川に移った。さらにひどくなりもっと田舎に行かなあかんとなって、滋賀県に移って。父親が病死し、母親に面倒見てもらうのが嫌で、16歳で家出して横浜で船乗りになったんですよ。乗ったのはアメリカ海軍のUSS LST-629という船。戦車や若い海軍隊員を乗っけて、韓国や沖縄、台湾、フィリピンや今のベトナム…仏領インドネシアを航海しました。関門海峡もよく通ってましたね。46人の乗組員の中では一番下っ端で10代もひとりだけ。ペンキ塗りや配膳などなんでもやりました」
「喧嘩ばかりしていたので(笑)」船を下ろされたという黒田さんは、大阪に帰ってきます。いろいろとヤンチャもしていた時期だそうですが、この頃から描くことが好きになってきて、ペンキ屋の仕事をするなど描くことに少しずつシフトしていきました。そんなとき、当時“東の亀倉雄策、西の早川良雄”と評判を呼んでいたグラフィックデザイナーの巨匠、早川良雄さんに弟子入りすることになります。
「あるとき、飲み屋で知り合った絵の世界が好きなおっちゃんから『図案って知ってるか?』と聞かれたので、『それなんですか?』と答えたら、『たとえばデパートのポスターがあるやろ。そこに絵や文字が配置されてるやろ。英語で言ったらデザイン。知らんねんな』というから『知りまへん』と(笑)。『ちょっとぐらい勉強せなあかんで』と言われて、それからデパートのポスターを見るようになったら、近鉄百貨店のポスターが好きになって、聞いたら早川良雄さんという人がデザインしているらしい。1回お会いしたいと思って事務所に行ったら、えらい無愛想な人でしたけど(笑)」
最初に訪れたとき、「なぜ来たの?」と早川さんに聞かれて「わかりません」と答えたら呆れられ、その次に行った黒田さんが敬意を評して「早川先生」と言ったら、「君から先生と呼ばれる筋合いはない」と言われるなど、どこかチグハグさもありますが、大先生の早川良雄さんは黒田さんに魅かれるところがあったようです。
「それから5、6回通っていると、先生から「うどん、いっしょに食べようか」と言われて、大阪ガスビル近くの早川事務所の前にあった『きよし』という店に連れて行ってもらいました。気に入られたんですね。先生は素うどんが好きで。『僕は素うどんにするけど、君は何食べる?』と聞かれたので『きつねうどんにします』と(笑)。若いお弟子さんがたくさんいたのですが、『黒ちゃん、先生にあんな気軽に口を聞けるのはお前だけやで』って言われてました。『そうですかねえ』と言いながら通ってました」
早川良雄事務所では、のちに「K2」として50年間苦楽をともにする盟友、長友啓典さんと出会うことになります。
「早川先生の弟分に当たる田中一光さんの紹介で、長友啓典がやってきたんです。長友は東京の桑沢デザインスクールに入っていて、夏季実習で。なんかこいつと喋りたいなと思ったんですけど、絵のことはわからんし何を喋ったらいいかわからん。今でも覚えていますけど、最初に『あんた、いい靴下履いてるなぁ』と言ったら、長友が『ええやろ』と返してきたんです。これはもう仲良くなりますよね」
ラジオやテレビでも活躍し、
大阪に残したマスターピース。
「K2」を始動した頃から、黒田さんはメディアにもよく登場するようになり、美空ひばり、黒柳徹子、松田優作、原田芳雄さんなど芸能人との交流も深めていきます。
「人運がいいので、気がついたら世間からイラストレーターという舌噛みそうな名前で呼ばれていた(笑)。東京のニッポン放送からラジオに出て喋らへんかと言われて。気がついたらテレビに出てました。大阪では、作家でテレビにも出ていた藤本義一さんが僕のことをかわいがってくれた。それで『11PM 大阪』に出だしたり。当時はやっさん(故・横山やすしさん)と三枝くん(現・6代目桂文枝さん)とも仲よくなって。好き勝手なこと言ってたら、それがおもろがられて金になった。飲み代稼ぐためにテレビに出てました。なんか勝手にやっているうちに、気がついたら仕事になっているというパターンが多いですね」
やはり大阪の気質が肌に合ったのか、黒田さんは「FM802」の初代ロゴをデザインして脚光を浴びるなど、なにわの地で大活躍。大阪で黒田さんが残した作品で、もっとも知られているもののひとつとして、心斎橋のアメリカ村にあるビルに描かれた壁画『PEACE ON EARTH(ピース・オン・アース)』があります。
「あれも面白いんですよ。まず、あの壁面に若手に描かせたいから審査員をやってくれと言われたんですが、僕は審査はするのもされるのも嫌いなもんですから、申し訳ありませんけどと断った。するとアメリカ村でバーをやっていた姉からすぐ電話がかかってきて『征ちゃん、なんでアメリカ村の仕事を断ったんや』と。『審査員なんてようやらんねん』と言ったら『しなさい』と(笑)。それで渋々審査をしたんですが、実現不可能なアイデアが多くて、結局当選作はなしになって。それで済んだと思ったら、また姉から電話がかかってきて、『描いてあげ』って(笑)。それで描くことになって、憂歌団の連中なども呼んで完成させました。木村充揮なんかは「俺、こんな高い足場に登るの怖い」って嫌がってたけど、「登れ登れって」(笑)。楽しくやりました。1983年のことですから43年前ですか。あれはもう街のものになっているのがいいですね。僕のものじゃない。そんでいいんです」
『PEACE ON EARTH』のすぐそばの「心斎橋ビッグステップ」には、黒田さんのアトリエ&ギャラリーである「黒田征太郎 KAKIBA描場」がありますが、ここが誕生した経緯も黒田さんらしいエピソードに満ちていました。
「『KAKIBA描場』にはたくさんのアクリル作品が置かれていますが、アクリルという物体は、僕にとってはいろんなことを考えてしまうものなんです。アクリルを使った椅子や花瓶のデザインで世界に出て行かれたインテリアデザイナーの倉俣史朗さんに、ずいぶんかわいがってもらった。それなのに僕は、『アクリルは1回傷ついたらもうどうしようもないですよ』とか倉俣さんが嫌がるようなことばかり言ってたんです。それでも倉俣さんは『黒ちゃんありがとう』って言ってくれて。本当に仲よくさせていただきました」
黒田さんの倉俣さんへの想いが、アクリルの作品づくりに向かわせたようです。
「倉俣さんが亡くなった後、俺も1回アクリルでモノをつくろうと思って、東大阪につくりに行った。こういう性格ですからやり出したら夢中になって、費用も何も聞かないで、めちゃくちゃいっぱいつくってしまった。当然多額な請求書が送られてきますよね(笑)。これは売らなしゃーないなとなって、安藤忠雄に『お前に見てもらいたいものがあんねん』と見に来てもらった。『きれいなあ』と言う安藤に『これ、なんとか売ってくれへんか』とお願いしたら、『なんで俺が売らなあかんねん。自分で売れや』と。じゃあ考えなあかんなと思って。大きなものもあるので置いておく場所がいるわけですね。それである人に今『KAKIBA描場』がある場所を紹介してもらって。施設の社長にお会いしたら気が合って。『ここ使ってくれていいよ』と」
「黒田征太郎 KAKIBA描場」では、アクリル作品の展示販売のほか、展覧会やワークショップなども開催されています。ここも『PEACE ON EARTH』も大丸心斎橋店から徒歩1 、2分とすぐ近くの場所にあるので、ショッピング帰りに立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
手塚治虫になりたかった少年が、
今も描き続けているアトム。
大丸心斎橋店の開業300周年では、手塚治虫が描いた漫画『火の鳥』とコラボレーションし、手塚プロダクションが制作した『火の鳥』をキャンペーンキャラクターにしています。
5月30日(土)のイベントでも黒田さんに不死鳥(フェニックス)を描いていただく予定ですが、そもそも黒田さんが絵に興味を持ったのも手塚治虫さんがきっかけでした。
「9歳のとき、母といっしょに、西宮からまだ戦後復興してない頃の大阪の松屋町に買い出しに行きました。ある店で木の箱の上に光っているように見えるものがあって、それが手塚治虫さんの『新宝島』でした。それをなんとかせがんで1冊買ってもらって、貪るように読んだら、手塚治虫になりたくなった。でもコマ割りなんかができなくて漫画家にはならなかった。それでも赤塚不二夫や石ノ森章太郎、藤子不二雄などの漫画家はみんな親しいですよ」
漫画家にはならなかった黒田さんですが、手塚さんへの憧れはいまだに続いていて、朝日新聞に連載されていた『小説「火の鳥」大地編』の挿絵を担当したり、鉄腕アトムを描き続け、『18歳のアトムー手塚治虫の鉄腕アトムから18歳のアトムへ』(2019年 今人舎)という画集絵本や、短編映画『アトムの血』を生み出します。
「アトムを描くのに、もちろん手塚プロダクションさんの許可をもらったのですが、『黒田征太郎さんならアトムを描いていい』と言っていただけました。なぜならアトムを金にしようとする人は多いけど、黒田さんならそんなことはしないだろうと。手塚治虫さんの息子さんとも何回も会って、『いいですよ』という言葉をいただいて。今でもアトムは、描くというより気がついたら出てくるという感覚です」
野坂昭如との出会いで、
戦争について感じること。
『アトムの血』のムービー・ピクチャーブックを読むと、“なぜぼくは戦うのだろう? 勝った人が正しくて負けた人が悪いのは本当なのかな?”というアトムのセリフが出てきます。人、戦い、核などについて考えさせられる本ですが、黒田さんはアートを通して原爆被爆・戦争体験を次世代に伝える「PIKADONプロジェクト」の発起人であり、戦争と平和について常に考えている人でもあります。
「小さい時から戦争というのは自分の中にあって。征太郎というのは本名で父親がつけたんです。父親は軍事工業をやっていて、軍人が集まる宴会によく連れて行かれました。軍国少年として育てられていくんですね。戦争に負けて進駐軍が来たのも覚えているし、西宮の夙川から大阪が燃え崩れていく風景を見てるんです。絵にも描いてますけど、きれいだった。いろんな場面で戦争と僕とは切り離せない。16歳の時に米軍の船に乗って多少英語に親しんだからアメリカにわたり、グリーンカードを持っていた。そこでもいろんなことを見たり学んだりして、僕なりの戦争感というのはあるんですね。戦争反対主義を振りかざすのは嫌いですけど、戦争という言葉にルビを振るなら「ひとごろし」、と書きます」
そう語る黒田さんに、多大な影響を与えたのが作家の野坂昭如さんです。
「野坂昭如という人とは、出会って一番深く付き合えた人。『戦争童話集』を12話出していて、それを読んだら、僕は僕なりに感じることはやはりありまして、それを全部絵本化しました。NHKと組んで映像化もしました。その中では、人間のつまんなさ、どうしても人間という種だけが、弱いものいじめをする。戦争という形で人殺しをする。それを野坂昭如という人はずっと書いておられるんですね」
ニューヨークに住み、国連の職員の子どもたちが学ぶ学校のグラフィックの仕事をしていた黒田さん。諸外国の子どもたちが戦争に対して学んでいることがなんとなく入ってきたそうです。
「どこの国でも戦争を忘れようとはしてませんよ。たとえばポーランドのアウシュビッツ。よく行っていたのですが、宿泊施設に泊まったある日、早朝から子どもたちの声が聞こえるので見たら、ほうきを持って掃除しているんです。どう見てもポーランドの子供じゃないので、「どこからきたんだ?」と聞いたら「ドイツだ」と。ドイツの子どもたちは親やその親たちがしたことの後始末をしている。日本の少年が韓国や沖縄へ行ってそんなことしませんよね。そんな経験からニューヨークに住んでいながら『PIKADONプロジェクト』を作って、もう一度言いますが、戦争反対と右手を挙げることは僕はしない。絵のようなものでやっていきたい。アメリカの水爆実験で被爆した第五福竜丸の話を絵本化しようと、博多の出版社といっしょに制作中です」
人と人を結びつける
絵が持っているチカラ。
「気ままにやっているうちに、気がついたら絵を描くことがものすごく好きになっていた。今も僕、大好きです。描きバカと呼ばれています。絵で役に立てることがやっぱりあるんですね。たとえば病院の壁にしょっちゅう絵を描いてた時期があって…」
そう言いながら黒田さんが話してくれたのは、20年前ぐらいに前にテレビの取材でアメリカのフロリダに行ったとき、黒田さんたちが乗っているクルマが大事故を起こして入院した病院のエピソードです。
「医師や看護師さんが、アメリカの言葉でいうアートが人を救うという気持ちを持っておられて。たとえば食事のメニュー表に看護師さんがちょこちょこと花の絵を描いてくれるんですが、それがうれしいなあと思った。それまで自分で絵を描きながら、絵のチカラなんて認めてなかったんですけど、絵ってなかなかやるなと。事故で結構足がぐちゃぐちゃになって、車椅子で帰って来たんですが、手は大丈夫でしたから、紙切れに絵を描くために手を動かしていると、自分で自分を癒しているところもあって、絵って捨てたもんやないなあと。それに今も引っ張っられています」
さらに黒田さんは、「僕にとっての絵というのは、人と人を結びつけてくれるもの」と言います。この門司港の地でも、絵によって地元の人とつながっているようです。
「この建物の外に落書きをいっぱいしているでしょ。これはこのへんを子どもたちがよく歩いているので、喜んでくれたらいいなあと思って描いた。喜んでもらえないのなら消すつもり。自分がやることが正しいなんて思っていませんから。ところが近所の人たちは、いいなぁ、面白いねぇと言ってくれる。隣りに弁当屋がありますけど、おばちゃんと仲よくなって、その壁にも描いてます。やっぱり広がるでしょ」
門司港の子どもたちのために壁面に絵を描いた黒田さんは、全国各地の小学校でもライブペインティングや課外授業を行なっています。
「僕は、子どものためにとかはめんどくさいので口にしませんけど、子どもといっしょに絵を描くと、忘れていたことを思い出させてくれるんですよ。それがおもろいからいっしょに描く。世間の人は、あいつ無愛想なわりにはやさしいなと思ってるんじゃないですか。子どもらから見たら、最初はおじいさんと思って接しているけど、いっしょに描きだしたら仲間と思いはじめる。僕はだいたい犬と子どもから好かれるんですよ(笑)」
5月30日(土)に大丸心斎橋店で行われるイベントでは、小学生以下の子どもたち20人といっしょにフェニックスを描くという企画も予定されています。ここで、子どもの絵についてのメッセージをいただこうと、僭越ながら筆者の3歳の息子が描いた海の絵のコピーを黒田さんに見てもらいました。
「これはいい! この絵を見て感動しない親はバカですよ。描きたくなってきたので、ここに描いてもいいですか?」と言うやいなや、目の前にあるクレヨンを手に取り、コピー用紙の上にさらに描き始めた黒田さん。
ちびた白いクレヨンで曲線を描いたり、濃い青で点を描写したり、描いたところを指でさすったり。黒田さんは黙々と絵に手を加えていきます。
コピー用紙への書き込みが終わったあとは、机の上の紙の束からおもむろに画用紙を取り出して、再び手を動かし始めました。
一心不乱に画用紙に海と波の絵を描いていた黒田さんが、「浮世絵の葛飾北斎なんかも大きな波の絵を描いていますが、あれは絶対音を感じながら描いていると思うんですね。絵と音とは仲よしになれる。僕が音を出すやつといっしょにライブペインティングをやり出したのはそう思ったから。ニューヨークではいろんな場所でやって、いっぱい人が来てましたね」とポツリ。
これまでさまざまなジャンルの音楽家たちとコラボして、ライブペインティングをずっと続けている黒田さん。最初にやったときの話を聞いてみました。
「もともとジャズやロックをやっていた友達が多くて、あるとき、音と絵って親戚みたいなもんやなと勝手に思ったんですよ。そう思ったら誰かに話をしたくて、そのときしょっちゅう酒飲んだり喋ったりしてたジャズミュージシャンの山下洋輔さんに『音楽に合わせて手を叩くやろ。手を叩く代わりに筆に絵の具付けて叩いたら、なんかわからんけど、絵のようなものができるやろ』と、わかったようなわからんようなことを言ったら、山下さんが『やろうじゃない。場所はオレが決めるから』と言ってくれた」
そして、黒田さんにとって初めてのライブペインティングは大阪の御堂会館で行われました。
「山下さんの対面に、左右5m以上、天地3mぐらいのキャンバスを若い衆何人かで持ってもらいました。始まったら緊張して足が動かなくて、だんだん腹が立ってきて、キャンバスにドッカーンと突進して、見事に全員で転がり落ちた。それで僕は頭を打って、血を流してるやつもいたけど、とにかく持ってきた絵の具を全部使って終わりました。つのだひろさんとか他のミュージシャンも出演していたんですが、半分は喜んでくれて半分は馬鹿にされた。山下さんはやさしくて、『気持ちよかった』と言ってくれてそれを伝え聞いたのがドラマーの村上“ポンタ”秀一。ポンタから電話かかってきて、『黒田、山下さんとやったやつ、オレんところでもやってや』と。それから近藤等則、世良譲さんなど、いろんな人が面白がってくれた。佐渡の和太鼓集団・鼓動とやっているのを見たアメリカのジャズ・ドラマー、マックス・ローチがやりたいと言ってくれて、一緒にやったりもしましたね」
大丸心斎橋店で5月30日(土)に行われるイベントでは、ジャズの音楽に合わせてのライブペインティング、そして子どもたちとのフェニックスの共作が予定されています。最後に、絵と音について、子どもたちに伝えたいメッセージを聞いてみました。
「絵と音楽にそんなにチカラがあるとは思いませんけど、絵のこと、音のことをひとつのきっかけにして、自然と人間とが仲よくせなあかんよということは言えると思うんですね。虹を最初に見た人間ってどんな気持ちになるか。きれいでびっくりすると思うんです。遠い天の果てから来た神様と思う人もいたり。虹って手でつかめませんよね。でも欲しい。人間たちは虹というのは、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色ということを発見しますよね。それで俺たちの体の中にも赤はあるな…そんなことを言うているうちに、絵の具を発明したと思うんです。虹は何億年、何千万年変わらず、バカな人間を面白がらせて、慰めてくれる。そしてもうひとつ、どこにでもあるけど手でつかめないのは音でしょう。音の起こりは、風じゃないですか。空気が動いてビューン。ビューンって美しい言葉で、もう音楽ですね。静止している水面にビューンが当たるとザッブーン、ドッブーン。波の形や音はすばらしい。偉大な画家やベートーベンなんてどうでもいいや!もっと太古から、人間どもが好きなアートや音楽なんて、なんぼでもあったんですね。僕は子どもたちと、そういう話をしたいんです」
自然と仲よくするために絵と音とふれながら、黒田さんや子どもたちがどのようなフェニックスを描きだすのか?5月30日(土)の大丸心斎橋店でのイベントが楽しみです。
黒田征太郎|絵描き
1939年大阪生まれ。16歳のときにアメリカ海軍の船の船員になり、1961年からグラフィックデザイナー・早川良雄の事務所に勤務する。1966年渡米するが、帰国後の1969年に長友啓典とデザイン事務所「K2」を立ち上げ、ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ賞を受賞するなど、国内外で幅広く活躍する。1992年に再びニューヨークにアトリエを構え、1994年には野坂昭如の『戦争童話集』映像化プロジェクト開始。2004年に「PIKADONプロジェクト」を展開。2009年に北九州市門司港に拠点を移し、ライブペインティングほかさまざまな創作活動を展開。2025年には初めての大型展覧会『黒田征太郎展 絵でできること』を北九州市立美術館で開催。
※今回掲載の内容は2026年5月25日現在の情報を掲載しています。
写真/竹田俊吾 取材・文/蔵均 WEBデザイン/唯木友裕(Thaichi) 編集・プロデュース/河邊里奈(EDIT LIFE)、松尾仁(EDIT LIFE)
300th ANNIVERSARY
開業300周年特設サイト
『ずっと、あきない。』
※黒田さんのイベント情報も掲載 ※別ウィンドウで開きます
87歳の今も描き続ける黒田征太郎さんが、
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黒田征太郎|絵描き
300th ANNIVERSARY
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橋爪節也|美術史家・大阪大学名誉教授
300th ANNIVERSARY
300年の歴史と共に飛翔する火の鳥。
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瀬谷新二|手塚プロダクション アニメーター・作画監督