300年の歴史と共に飛翔する火の鳥。
作画監督が語る手塚作品の魅力
瀬谷新二|手塚プロダクション アニメーター・作画監督
今年、大丸心斎橋店は開業300周年を迎えます。その周年を記念し、手塚治虫さんのマンガ作品『火の鳥』とのコラボレーションが実現しました。記念キャラクターとなった火の鳥が、新聞広告やTV-CM、館内デジタルアートサイネージに登場し、お祝いを華やかに演出します。コラボレーションの見どころを探るインタビュー、後編はアニメーター・作画監督の瀬谷新二さんの登場。手塚治虫さんの現役時代のアニメーションの現場を知る、手塚プロダクション内でも数少ない人物の一人です。今回のコラボレーションに合わせたスペシャルアニメーションの制作秘話や手塚作品の魅力まで、貴重なお話をたっぷり伺いました。
大丸心斎橋店 開業300周年 「ずっと、あきない。」 ©TEZUKA PRODUCTIONS/DAIMARU SHINSAIBASHI
300年の歴史と共に、
火の鳥が優雅に舞う。
南館の屋上看板として親しまれている大丸の旧ロゴマーク。「大」は「一」と「人」から成り、「丸」は宇宙や天下を示します。これは創業者である下村彦右衛門正啓の、「天下第一の商人であれ」という志と決意を表したものです。300周年を記念して、この旧ロゴマークのとなりに、時空を超える存在である手塚治虫さんの『火の鳥』をモチーフにした、過去と未来を象徴するマークが配置されました。紋を想起させるデザインには、「呉服屋をルーツとする大丸の「ずっと商いに向き合い続ける」という変わらぬ思いが込められています。
そして大丸心斎橋店のあゆみを辿る特別ムービーも公開されました。大丸心斎橋店の歴史を振り返る映像がバックに流れる中、火の鳥が300年の時の中を優雅に羽ばたき、最後は300周年の記念モチーフの中に納まるというもの。
今回の映像のアニメーション制作に携わったのが、手塚プロダクションのアニメーター・作画監督の瀬谷新二さんです。実は瀬谷さんは、市川崑監督の実写版『火の鳥』(1978年)のアニメパートの制作にも携わっていたそうです。約半世紀を経て再び向き合うこととなった『火の鳥』。どんな思いで今回のコラボレーション映像に取り組んだのでしょうか。
「今回の映像の『火の鳥』の羽ばたきのタイミングは、まさに私が初仕事でやった市川監督の『火の鳥』そのままなんです。なので、私の中で『火の鳥』といえば、まさに“ゆったり”とした羽ばたきです。『火の鳥』は、鳥として描いていますが実在するものではありません。象徴的な何者かとして、形而上学的な意味を持って存在しています。ですから飛び方においても象徴的なものを表現する必要があるんです。
実際のところ、あれだけ大型の鳥だとあれほどゆっくりの羽ばたきだと浮遊できないので、物理的にあり得えません。でも、優雅に羽ばたかないと『火の鳥』じゃないんですよね。1978年の『火の鳥』で原画を描いたのは、先輩アニメーターとして活躍していた小林準治さんです。当時の私は動画マンという仕事で参加して、いただいた原画と原画の間を動画で繋ぐ作業をしていました」
ゆったり羽ばたいてこそ、
『火の鳥』を表現できる。
そもそもアニメーションとは、原画マンが描いた核となる原画と原画の間に「中割り」と呼ばれる絵を描き、連続する静止画をコマ撮りして再生させることで動いているように見せるというもの。そのコマ割りが細かければ細かいほど、滑らかな動きを表現することができる。
「翼の中でも先端で特に大きく目立つ羽を風切羽というのですが、その一枚一枚をすべてきれいに揃えて描かかなければいけないので、えらい神経を使いました。確か当時、一度の羽ばたきを表現するだけで、15、6枚は描きました」
「また火の鳥といえば、ハート型が連なる3本の羽と2本の赤く長い尾羽根も特徴です。実はあれが中割りするときに大変なんです。これらは羽ばたきに合わせてゆったりなびくのですが、何枚も何枚も描いてずっと見続けていると、ゲシュタルト崩壊を起こして頭がおかしくなってくるんですよ。動きとしてはすごくシンプルなので大変なことはないように見えますが、実際に描くとなると案外キツいんです」
ちなみにTVアニメでは、1秒間に8枚の絵を使用する3コマ撮りが主流といわれる。1秒に満たない羽の表現の中に15枚もの絵が使われていると聞くと、その動きがいかに滑らかなものか想像することができる。
今回のコラボレーション映像でも、30秒ほどのアニメーションの中に並々ならぬこだわりが詰まっています。例えば冒頭のシーン。
「まずは主翼の羽ばたきと、2種類の尾羽根の見栄えが一番いいアングルを選んで原画にします。でも中割りする時に、主翼がひらりと羽ばたく時に尾羽根のシルエットが重なってしまうと絵にならないんです。すべてが重ならないように、いかに芝居をさせるか。
ただ飛んでいるだけじゃなくて、やはり“芝居”なんですね。『火の鳥』がフレームインしてきた時に一瞬顔が見えますが、芝居としては尾羽根が主役になるんです。それが印象に残るように計算して作画しましたね」
「技術的な話になってしまいますが、作画で嘘をついてるんです。奥のものはうんと小さく描き、手前の尾羽根はうんと大きく置き換えて、カメラの広角レンズで捉えたような効果を狙っています。
そして原画の段階でも、パラパラ漫画として成立するくらいかなり細かく描いています。そうしないと繋いだときにガタガタの動きになってしまうんです。原画できっちり押さえ込んでおいて、なるべく動画の人の手を煩わせない。そうしないとあの優美さは表現できないので、『火の鳥』の場合は原画の段階から特別神経を使います。実は今回のコラボレーション映像でも、冒頭のシーンは何枚も描き直したんです」
『火の鳥』は他のプロダクションによって制作されたアニメもありますが、よく見ると羽ばたき方が違うのです。今回のコラボレーション映像では、まさに手塚プロダクションによる元祖『火の鳥』の優雅な羽ばたきをぜひ堪能ください。
手塚作品に憧れて、
アニメーションの道へ。
1978年、18歳で手塚プロダクションに入社した瀬谷さん。とにかくアニメがやりたくて、高校生の頃から8ミリフィルムで絵をコマ撮りし、ひとりでアニメ制作をしていたほどの情熱の持ち主です。そんな瀬谷さんが、そもそもアニメーターを目指すきっかけになったのは紛れもなく手塚作品の影響だそう。
「私が小学生の頃、1965年に日本初の本格的カラーテレビアニメとして『ジャングル大帝』が放送されたのですが、当時自宅にはモノクロテレビしかなかったので、カラーってなんだろう?と思いながら見ていたんです。その翌年に劇場版が公開されたので、友人と映画館へ行って見たら、カラーなんです!その時のオープニングの美しさに圧倒されて。小学校2年生の子どもの脳裏に強烈に焼きついたんですね。
その後、中学を卒業する頃かな、代々木の日本青年館ホールで『虫プロ名画祭』という虫プロ作品の上映会をやっていて、懐かしくなって観に行ったんです。そこでまた、『ジャングル大帝』のオープニングを大きいスクリーンで見るわけです。するとあの小学生の頃の原体験が、強烈に、鮮明に蘇りました。その映像を見た瞬間に、『俺、アニメーターになるぞ!』と決めたんです。
そこから高校生になり、勉強なんかは一切しないでアニメ作りに没頭しました。当時、アニメーションの入門書は2種類しかなく、それをよりどころに、機材を揃えてコマ撮りをして、見様見真似でアニメーション作品を完成させたんです。フィルムの再生機を手回しでグルグル回した時に、自分の描いたキャラクターが初めて自分のイメージした通り動いて。その感動が忘れられなくて、もう病み付きです」
夢だけはある、けれど将来のことは何も決まっていない……。そんな時、運命的な募集広告との出会いがあったそうです。
「手塚先生の作品は大好きだったから、先生のもとでアニメをやれたら最高。だけど、当時虫プロは倒産していました。その頃、手塚先生は『ブラック・ジャック』を『週刊少年チャンピオン』に、『三つ目がとおる』を『週刊少年マガジン』に連載していて、毎週読んでいたんですが、ある時、連載マンガの最後のコマに『アニメ動画の見習い募集中』という広告があったんです。それを見て、これだ!と思って自作のフィルムを手塚プロダクションに送ったら、受かったんですね。
後で分かったことですが、その時選考してくれたのがアニメーターの小林さんだったんです。46名の応募があった中で3人合格しましたが、フィルムを作って送ってきたのは僕だけだったみたいで。『きっとこいつならやる気があるだろう』ということで採用してくれたそうです」
「そのまま手塚先生のもとで勉強させてもらって、アニメーションの仕事に関わり続けて今に至りますが、絵を動かすのって、ものすごく手間がかかるんです。そして非常に学ぶことがたくさんあります。物が動く時の原理をちゃんと理解して、映像表現として何をどうしたらいいかを考えなくてはいけない。もちろんデッサンはしっかり学びますし、解剖学も運動力学も学びます。そういうことをやり続ける粘り強さがないとアニメーターとして楽しさが続かないんですよね。
絵が上手いだけでは務まらないので、アニメーターは特殊技能だと思います。あとはやはり、体力。手塚先生は、マンガを描きながら自分でプロダクションを作ってまでアニメーションに精力を注ぎ続けました。その両輪をやってのけた非常に稀有な存在。マンガで稼いでアニメに注ぎ込む、そういう方でしたね」
憧れの手塚プロダクション、
仕事現場はまさかの修羅場?!
そうして入社した憧れの手塚プロダクション。マンガ連載に単発作品、それと並行してアニメーションの制作も進行しています。多忙を極める手塚治虫の現場は、高校を卒業したての18歳の青年にとって、驚きの連続だったそうです。鬼気迫る当時の仕事場の様子を振り返ってくれました。
「あの頃は高田馬場の早稲田通りをちょっと上ったビルに仕事場がありまして、廊下を挟んでマンガのエリアとアニメのエリアとの2つに分かれていました。マンガエリアにはアシスタントが10人以上いて、漫画編集者の溜まり場となっていた部屋もあり、『ブラック・ジャック』、『ユニコ』『三つ目がとおる』、加えて読み切り漫画などの担当者が常に詰めていましたね。締め切りギリギリ、あるいはもう過ぎていていることは日常茶飯事で、雑誌社の人も本当に泊まり込みで原稿を待っていましたから、もう修羅場です。
先生は上のフロアにある自分の部屋で仕事をしているんですが、どの原稿が上がってくるか分からない。一方のアニメチームは、『先生が早く絵コンテを描いてくれなくて困るなぁ』なんて言いながら、何かの用事で漫画編集者の部屋の横を通ったりするとすごく殺気立っていて、『おまえらのせいで先生の原稿が上がってこないんだ!!』と、睨まれることもありましたね(苦笑)」
「入社したてのある時、僕らが研修をしていると、フロアが何やら騒がしくなってきたんです。当時、日本テレビ系列のチャリティー特別番組『24時間テレビ「愛は地球を救う」』で放送される手塚先生の2時間スペシャルアニメ(『100万年地球の旅 バンダーブック』 手塚治虫が原案、構成、演出、原画までを手がけた)があったんです。でも先生の絵コンテが全然上がってこない。このままだと絶対に放送に間に合わないという状況で、制作管理の人間がたまらず失踪しちゃったんですね。
で、その時たまたまアルバイトでいた、当時まだ学生だった清水義裕さん(現・顧問)が、最も状況を分かっていたという理由で、『お前が仕切れ』と言われて急遽現場を任されることに。そのくらい、スケジュールも何もめちゃくちゃでしたね。でも、それでもなんとかなっちゃうんですよね。『100万年地球の旅 バンダーブック』は実質1カ月半くらいでつくったんじゃないかな。手塚先生が『1カ月半でつくっちゃったよ』なんて笑いながら言っていたのを覚えています」
手塚治虫という人は、
燃え盛る太陽のような人。
いざアニメの制作が動き出すと、マンガフロアに負けず劣らずの修羅場が始まります。
「周りの先輩たちがみんな会社に泊まり出し、僕もなんとなく会社に泊まり込んだりして。でもあれだけ憧れた手塚先生の現場ですから、もう楽しくて楽しくてしょうがないんですよ。今の時代ではさすがに許されないことですが、徹夜してブラックだなんて思ったことは一度もないですね。
当時すごく印象的だったのは、アニメ部門にはまだ人が揃っていなくて机にちらほら空きがあったんです。作画用の動画机というのがありまして、手塚先生がトレードマークのベレー帽を目深に被って、帽子で目隠しをして机の下に頭を突っ込んで床で腕を組んだまま寝ていたんです。誰か床で寝てる、と思ったらなんと先生!
手塚先生は24時間体制でマンガの連載を何本もこなしながらアニメの仕事を並行してやっていましたから、眠くなったらその場で寝るんです。そして15分くらいでぱっと目を覚ます。僕は高校卒業したての18歳でしょ、生で見てものすごくびっくりしました。本当にギリギリで働いてらっしゃったんだと思います。
でも、手塚先生は、とにかく燃え盛る太陽なんです。ものすごい勢いでぐるぐるぐるぐる回転していて、みんなその回転するエネルギーに流されて、気づくとわーっと巻き込まれている。会社の誰よりも、先生が一番ガンガン働いていました。まさにエネルギーの塊のような人でしたね」
『ある街角の物語』 ©TEZUKA PRODUCTIONS
手塚治虫さんは天才的なマンガ家であると同時に、日本屈指のアニメーション監督でもありました。『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『火の鳥』『どろろ』……。日本人なら誰もが知るテレビアニメを次々に世に送り出し、日本のアニメーションの礎を築きます。と同時に、実験的な短編アニメーションも数多く手掛けています。それらのアートアニメーションにこそ、手塚作品の真髄があると瀬谷さんは言います。
「手塚先生は商業アニメーションの原型を作った方ですが、先生がアニメ制作会社である虫プロダクションを立ち上げた時に、一番最初に作ったのはアートアニメーションなんです。『ある街角の物語』(1962年)という30分ほどの中編作品があるんですが、僕はこの作品が大好きです。今見ても非常に音楽性が豊かで、とてもよくできたアニメーションです。
『展覧会の絵』 ©TEZUKA PRODUCTIONS
入社直後に先生が「商業アニメは見なくていいから。そのかわり『展覧会の絵』(1966)や『ある街角の物語』のような実験アニメーションを見てくれると嬉しいな」とおっしゃっていたのをよく覚えています。今思えば、私が入社当時、最初に準備の手伝いをしたのは『森の伝説』でした」
『森の伝説PART-1』 ©TEZUKA PRODUCTIONS
『森の伝説』は、チャイコフスキーの『交響楽第4番』(『ある森の伝説』)からイメージを想起した4つのエピソードを完成させるべく、手塚治虫さんが十数年に渡って構想をあたためていた作品です。最終的に完成したのは第1楽章と第4楽章の部分だけとなり、幻の名作といわれています。
「一枚ずつ絵を描いて、背景とセルキャラクターを分けるセル画の技術がない時代のアニメーションから始まり、新しい技術的な表現がどんどん加わっていって、最終的にカラーのフルアニメになるという、アニメーションの歴史そのものを振り返るような壮大な作品になるはずでした。
『ジャンピング』 ©TEZUKA PRODUCTIONS
また『ジャンピング』という作品は、一人の少年がスキップしながら通りを歩いているうちに、どんどんジャンプが大きくなり、町を越え、森を飛び越え、やがて人類の行く末を見つめるような壮大なジャンプとなっていく。全編ワンカット、動画枚数4000枚という驚きの短編です。こちらも素晴らしい作品なので、機会があればぜひ見ていただきたいですね。これらの実験アニメーションの作品を見ると、手塚治虫という人が、本当にアニメーションが大好きで、やりたかったのはこういう表現なのだ、ということがよく分かります」
手塚治虫さんが探究し続けた、アニメーションという表現の可能性。進化し続ける技術の革新、生きることの意味や、時に消費社会へのアンチテーゼを込めながら、物語を描き続けました。そのイズムは後世のクリエイターたちへ受け継がれ、まさに時空を超える『火の鳥』のごとく現代を生きる私たちのもとへ届けられます。それは今回のコラボレーション映像で、優雅に羽ばたく『火の鳥』のひとひらの翼の中にも宿っているのです。
瀬谷新二|手塚プロダクション アニメーター・作画監督
アニメーション監督、作画監督、アニメーター。1978年、アニメーターとして手塚プロダクション入社。1989年の『青いブリンク』にて作画監督補佐、サブキャラクターデザインを担当。以後、『アストロボーイ・鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』『遊戯王ZEXAL』など多くの作品でキャラクターデザインや作画監督として携わる。手塚プロダクション デジタルラボ代表。新潟市にある開志専門職大学アニメ分野で教授も勤める。
※今回掲載の内容は2026年3月10日現在の情報を掲載しています。
写真/メグミ 取材・文/西野入智紗 WEBデザイン/唯木友裕(Thaichi) 編集・プロデュース/河邊里奈(EDIT LIFE)、松尾仁(EDIT LIFE)
300th ANNIVERSARY
開業300周年特設サイト
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300年の歴史と共に飛翔する火の鳥。
作画監督が語る手塚作品の魅力
瀬谷新二|手塚プロダクション デジタルラボ代表
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手塚るみ子|手塚プロダクション取締役
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