大丸福岡天神店 ※ご注意:本頁は2003年取材当時の内容です。
丸幸・大龍のルーツ
『幸陽軒』
(1952〜1974年)
のこと

源淵


有限会社 丸幸ラーメンセンター
常務取締役原口春美さん


幸陽軒オーナー 故・原口幸春さんのご長女
ルーツ
『幸陽軒』の誕生
かつての軍都・久留米は大戦後、ブリヂストン、日本ゴムが牽引する「企業城下町」として急速な復興期を迎えます。
この時期、活況に沸きかえった繁華街がJR久留米駅に隣接した「文化街」です。

『幸陽軒』は原口幸春(1928〜1989年)さんにより「文化街」の東側に1952年(S27)開業します。

原口さんは「ともかく美味しいものを食べてまわるのが大好き」で、1960年代には10数人の知人たちと地元ステーキ屋を拠点に「食通の会」を結成。キジやイノシシなどメンバーで持ち寄っては舌鼓をうっていた、といいます。
『幸陽軒』開店にあたり、原口さんがどこかで修行したことはなく、あちこちを食べ歩き「見ようみまねの独学で始めた」とのこと。
「当時父は、『南京千両さんと同じように、安くて庶民的で、おいしい店が持ちたい。これからの時代、中華そばは必ず支持されるようになる』と考えていました」。
開店翌年(1953年)には、現『大龍』グループ会長の黒岩文雄さん(1928年〜)が入店。間もなく店長として非凡な腕をふるうようになります。

※1950〜55年の朝鮮動乱による特需景気、1955〜57年の神武景気、1959〜61年の岩戸景気、1960年代はモータリゼーションの進展が久留米経済の大きな追い風となる。


幸陽軒オーナー
故・原口 幸春さん
繁華街の繁盛店 「文化街」へのメインの入り口、という好立地に恵まれた『幸陽軒』は当時10時30分〜26時までの営業、店休日なしで1日500〜600杯を売り上げる店でした。

1960年代なかば、幼稚園入園前の原口春美さんの記憶から当時の繁盛店のようすがうかがえます。

「昼間は父母ともにお店に出ていないと回らない状況でした。その間私はいつも、通りの柳並木の下に置かれた竹の縁台に紐で結び付けられ、遊んでいました。

文化街の中はクラブやキャバレーがいっぱいあり、各店に住み込みで働くお姉さんたちがたくさんいました。縁台につながれている私を、彼女たちが連れて行ってくれ、お仕事が始まる時間まで、よく遊んでくれました。

お姉さんたちも『幸陽軒』のお客様で、お仕事に出る前に食事に寄ってくださるので、そこで私を戻してくれました。その頃のお姉さんたちは、いま各店のママや大ママになって活躍してらっしゃいます」。

当時は住み込みの従業員と原口夫妻の7名で営業。スナックへの出前もやっており、昼どき、夕刻の飲食店開店前、深夜の飲食店閉店後、という3つのピークにフル稼働だったといいます。

お正月(1953頃か)の撮影
原口さんの右が奥さんのケサヱさん

木造だった頃の幸陽軒
峻烈きわめた
スープへの思い
「父はいつも白いタオルの鉢巻、高下駄をはいていました。土間の大釜で炊き出している豚骨をスコップでひっくり返す作業で汗びっしょりでした。

味に対して大変厳格で、弟子がスープ係りを交代したときに少しでも味が違っていたら、ものを言う前に、スコップで頭を叩いていた。スープをすくうオタマで殴ることもありました。流血の怪我になるのはしょっちゅうです。

いまでは考えられないことでしょうけれど、昔は弟子のほうも、徒弟制度の覚悟があって働いてたんですね。黒岩会長もスープをとるとき、同じように厳しかったですよ」。

豚骨スープを常に一定のレベルに保ち、毎日おなじ味をお客様に出すということは、ラーメン店として当たり前のことに思われるでしょうが、実はこれが至難の作業です。職人の技と威信はこの一点にかかっている、といっても過言ではありません。

豚は年齢や育ち方によって、スープの味が変わります。優れた職人は豚骨の外見、色つや、触覚である程度判断できるといいますが、それでも常にブレが出ます。そのつど骨を足したり、抜いたり、さまざまな技法で調整を行います。

『幸陽軒』の場合は早暁からスープ作業にかかり10時30分開店前までに万全の体制をととのえていました。ところがどう調整しようにも不能、開店時間まであとわずか、という不測の事態も皆無ではありませんでした。

「そんな時も『幸陽軒』は絶対に店を休むことはありませんでした。急きょ少人数用にあつらえた釜でお客様に出し、空いている釜をフル稼働させて次々と1日分のスープをとっていく。厨房は火事場の様相になりました」。

「お昼に、夕餉に『幸陽軒』で食べたい」というお客様の思いを1回でも裏切ってはならない。いかなることがあっても、営業する。これが原口さんが墨守したラーメン店主としての使命でした。

いまも残る
旧・幸陽軒のビル
『丸幸』への移行 1965年(S40)原口さんは、黒岩さん、義弟で剣友の八郷清孝さんと共同出資で、国道3号線沿いの佐賀県基山町に『丸幸ラーメンセンター』を開きます。

幹線道路に面し、店舗を大きくセットバックさせ前面に大きな駐車場を配した、車社会アメリカで一般的な店舗形態への挑戦です。

「二店同時に営業したのは、実はリスク回避のためです。時代を先取りしたドライブインが実際に受け入れられるかどうか、まだこの時点では疑心暗鬼でした」。

当初熟練の技はすぐに確保することができないため、頻繁に『幸陽軒』のスタッフを連れて行き、繁忙時の即戦力として運営にあてています。まもなく長距離ドライバーの口コミがつぎつぎと評判をよび、『丸幸』が急速に客数を伸ばすことになります。

こうしたなか人材の育成が急務になるのと同時に、旧来の耐火煉瓦を組み上げた大釜から、重油を使用する高火力スチームボイラーに転換し、同店がこだわる『新鮮なスープ』を常に供給できる体制を整えます。

1967年に黒岩さんが独立し、久留米市花畑に『大龍』を創業。その後も『幸陽軒』『丸幸』の二店体制は続きますが、第一次石油ショックの翌1974年、ついに久留米市中心部に立地した母店『幸陽軒』は20余年の歴史を閉じ、郊外型の『丸幸』がその後継店として今に至ります。

「小学生になり物心ついた時分から、お店の手伝いをしてきました。一番楽しかったのは久留米の百貨店で毎年一回、物産展が行われた時です。

当時の物産展は地元の銘店を集めたものでした。ここで私はテーブルまでのお運びを担当していましたが、学校が終わると一目散に会場に行きました。

というのも一日のご褒美に会場へ出店している『古蓮』(久留米の老舗甘味処)の『月見あんみつ』が食べられるから。どうもこのあたりから接客サービスに興味をもち始めたんだと思います」。

春美さんは、父・幸春さんの後を継ぎ、経営者となった今も、エプロンがけで『丸幸』の店内をくるくると、忙しく立ち働いておいでです。

2003.04.24

八郷 清孝さん

佐賀県基山町に開業した
丸幸ラーメンセンター
●傍白● ▼『幸陽軒』クローズ後、当時の常連客からはことあるごとに「もどってこい」コールが続いていたといいます。

久留米市内から佐賀県基山の『丸幸』まで、直線コースですが、車で30分強。ちょっとお昼に、とでかけても、往復だけで昼休みがなくなってしまいます。

筆者はその気持ち、よくわかります。学生時代に帰省したら、高校生時分に大好きだった店が突然閉店しており、それからというもの、帰省するたびに電話帳をめくっては、遠くは下関まで同名の店を捜し歩きました。結局さがしあてたのは、19年後。涙が出るほど嬉しかった。

さて、屋号は復活しませんでしたが、2001年久留米の原古賀へ『丸幸』が出店。37年ぶりに『幸陽軒』の味が久留米に戻ってきたことになります。店長は春美さんの義弟にあたる、原口直司さん。

この店はたいへん明るい間取りで、今風の内装。春美さんにどこのコンサルを使ったのか尋ねると、笑いながら、別の「うどん屋」が撤退したところへ、そのまま出店したとのこと。

あまりの採光の良さに夏の厨房は修羅場になっていたそうで、さらに改造を要したそうです。

久留米の人にとっては、うらやましい限りです。私の場合、くだんの店へ行くのに高速道路だけで片道70km以上かかるのですから。それでも月1度は食べにいく私、家族から冷たい視線をあびています。

2003.06.26


▼文中、豚骨スープを毎日、平均の味で提供することの難しさにふれました。セントラル・キッチンで濃縮したスープを、FC各店に供給するようなビジネスモデルの場合は、こうした「家業としてのラーメン店」が避けられない、宿命的な問題とは無縁です。いつ、どの店に行っても失望するリスクはないでしょう。
しかし豚骨ラーメンの醍醐味は、何といってもオーナーや職人さんが苦心惨憺した、炊き出したばかりの新鮮な「香り」ではないでしょうか。20年以上前、筆者が通いつづけていた南小倉駅前の『一竜軒』で、寸胴の至近距離にあるカウンター席を定位置としてこだわりつづけたお客さんがいた、と聞きます。そのお客さんは寸胴から丼に移したスープの香りを、一瞬でも早く鼻腔に入れたい、という強い執着をお持ちだったようです。味のブレはどんな老舗・銘店でも、必ず起きています。前はおいしかったのに・・・と感じたときは、ほとんどがブレです(オーナーの考えが変わっていない限り)。

ですから、ガイドブックを見たり、評判を聞いて、初めて暖簾をくぐった店の味が、満足いくものであった場合、むしろ大変な幸運だと思うようにしています。

私的には薄味低塩度(ただしゼラチン質は多め)のほうが、日をあけずに頻繁に楽しめるので好きなのですが、こうした薄味の店はエッジ(クセになる要素)が見つけにくい上に、味の濃さでカバーしないため、ブレが露骨に出ているときの方がはるかに多く、2度か3度目に気づく、というパタンです。

しかし一たびエッジを見つけてしまえば、多少のブレがあっても、楽しむことができます。いつも通える店が1つ増えるのは、人生の楽しみがまたひとつ増えることになり、こんなに嬉しいことはありません。

ラーメンが好きな方にお薦めしたいのは、500円玉1個で収まる店ならば、最低3回は召し上がって、あなた自身の評価を下していただきたい、ということ。700円を超える店はそうそう挑戦できませんので、美味くても不味くても筆者の場合は1回でよしています。

2003.06.27 式島 健治

幸陽軒の味が37年ぶりに
久留米に戻ってきた。
『丸幸』原古賀店

原古賀店の店長
原口 直司さん
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